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F-0029 合言葉をわざと覚えないことにした人の聞き取り

時期
2020 年代なかば(聞き取りの実施時期による)
状態
完全
出所
聞き取りに応じた当時の留守番の本人。現在は三十代。

// 本文

(聞き取りの録音から起こされたものとされる。問いの側の発言は、採録の際に要点だけが残されている)

(留守番の決まりについて)

三年生の秋からです。親がどっちも働いていて、夕方はひとりでした。決まりは紙に書いて冷蔵庫に貼ってあって、知らない人が来てもドアを開けない、家の者の使いが来るときは、開ける前に外から合言葉を言ってもらう。使いに来るのは祖母か、同じ棟のおばさんって決まってました。合言葉はお母さんがときどき決め直して、晩ごはんのときに言って、台所の連絡ノートの隅に小さく書いておくんです。ノートは、業務連絡っていうか。牛乳あるよとか、帰りは何時とか。お母さんが書いて、ぼくが返事を書く。寝る前に読むのが日課でした。

(最初の来客について)

二月です。節分のすぐあとだったと思います。夕方にチャイムが鳴って、受話器を取ったら、お母さんに頼まれて来ました、って。それから、やかん、って言ったんです。そのときの合言葉。だから決まりでいえば、開けるところでした。開けなかった理由は、いまでもうまく言えません。声で分かる誰でもなかったから、っていうのがいちばん近いのかな。どんな声って聞かれると、ふつうの大人の声、としか。しばらく待って、もういちど、やかん、って言って、帰っていきました。足音が階段のほうに消えて。

(家族に話したときのこと)

晩ごはんのときに言ったら、母は、褒めるより先に変な顔をしたんです。やかんは先週やめたでしょう、いまは、おでん、でしょうって。父もうなずいてました。変えた晩に食卓で言った、おまえも返事をした、って言うんですけど、覚えがなくて。ノートをさかのぼったら、たしかに一週間くらい前の頁の隅に、新しいのが書いてありました。同じ頁に、ぼくの書いた行もあるんですよ。隅のだけ、見たおぼえがなかった。

(その後のこと)

それから二年ちょっとのあいだに、何度かありました。続いた月もあるし、半年あいたこともある。連休のあとすぐ、っていうのも覚えてます。いつも夕方で、いつもひとりで、いつも、ぼくがそのとき最新だと思ってる合言葉を言うんです。で、あとで確かめると、それは少し前に変わったことになってる。隅の字は、どれもお母さんの字に見えました。でもお母さんは、ずっとあとになって、決め直した覚えは最初の一度か二度しかない、って言うんですよ。

(順序が違った冬のこと)

一度だけ、逆だったことがあります。十二月の、クリスマスの前。来た人が、誰にも教わってない言葉を言ったんです。つくし、って。季節も外れてるし、ぼくはそれを、合言葉を間違えたんだ、って聞きました。年が明けて、三月の食卓で、母が、つくしにしよう、外はもう春だから、って。ぼくは何も言えなくて、ノートの隅に書かれるのを黙って見てました。

(対策について)

そのころからです、教わった合言葉をわざと覚えないことにしたのは。ぼくが知らない言葉は、外の声にも言えないはずだ、っていう、子どもの理屈ですけど。覚えないでいた数か月は、一度も来ませんでした。学年が変わって、決まりのことを親にあらためて言われて、覚え直して。その春の終わりに、また来ました。

(決まりが終わったあとのこと)

中学に上がったら、合言葉を使う歳でもなくなって、決まりは自然になくなりました。いつから来なくなったのかは、はっきりしません。覚えてるのは回数です。合言葉を言って帰っていく声を、全部で六度聞きました。六度とも、ドアは開けてません。……外の誰かが間違ってたことは、一度もない気がするんです。まちがってた、って言い方も変ですけど、ぼくのほうがいつも、一つ前にいた。それがどういうことなのかは、いまでも、うまく考えられません。

(最後に教わった合言葉について)

覚えてます、いまも。教わってから二十年ちかくになりますけど、まだ一度も、ドアの外から言われたことがないです。それが何かは——言わないでおきます。

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D-0008 その合言葉は先週変わりました

金沢

2004 年の冬頃 2007 年の春頃

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