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F-0026 警報器がいい声で鳴る家には丸を付けている

時期
2026 年の春から夏
状態
完全
出所
消防設備の点検業に従事する人物の私的な手帳の写しとされる。氏名・社名にあたる記載は見当たらない。本文中で言及される顧客先の手控えは写しに含まれていない。

// 本文

(私的な手帳の写しとされる。日付の年は記されていない)

四月九日

連休前に詰め込みすぎだ。船橋の団地、今日と明日で二棟。エレベーターのない五階建てはほんとうに膝にくる。住警器のボタンを押して、正常です、を聞いて、判子をもらって次の戸へ。数えたことはないが、多い日は二百回くらい聞いているはずだ。昼はレバニラ。大盛りは失敗だった。午後の階段で後悔した。

四月十六日

松戸の分譲。十一時ごろの棟で一戸だけ、いい声があった。男の声。立ち会いの奥さんに、いい声で鳴りますね、と言ったら、笑っておられた。手控えに丸。今年はこれが最初。

四月十七日

書いておくと、機械の声に個体差はない。事務所で新品を十個並べて鳴らせば、十個おなじ声がする。それでも現場では、たまに、いい声がある。この仕事を十何年かやって、いつからか、いい声の家は手控えに小さく丸を付けるようになった。理由を聞かれても困る。点検票には書くところがないから、というのがいちばん近い。誰にも言ったことはないし、新人にも教えない。

四月二十五日

丸を付けるような家は、たいてい静かだ。上がらせてもらって、脚立を立てて、そのあいだ玄関の奥から物音がしない。家族の靴がある間取りで、立ち会いの一人としか会わない。そういう家は世間にいくらでもある。

五月十四日

川崎の現場で一戸、いい声。ここは静かじゃなかった。子どもが二人、点検のあいだじゅう脚立の下からこっちを見上げていた。丸を付けるか少し迷って、付けた。静かな家、というのは俺の思い込みかもしれない。わからなくなったので考えるのをやめた。

五月二十九日

うちのはただの機械の声だ。帰るとたまに押す。癖だ。このアパートに十五年一人で住んでいて、うちでいちばん喋っているのはテレビだと思う。俺は家では声を出さない。出す用がない。

六月十一日

うちの声が違って聞こえた。疲れているのかと思って、次の朝も押した。どこかで聞いた声だ。現場の誰かか、テレビの誰かか。思い出せそうで思い出せない。嫌な感じはしない。それがどうも引っかかる。

六月二十日

昼に事務所へ電話したら誰も出なくて、留守番電話の応答につながった。あの吹き込みは、何年も前に俺がやらされたものだ。聞いて、わかった。うちの警報器は、あの声で鳴っている。

現場のいい声も、そういうことだったのか、と帰りの車で思った。あれはどれも、その家の誰かの声だったのか。俺には確かめようがない。

六月二十七日

一日じゅう天井にいて、下の声を聞いている機械ではある。だとしても、うちのが俺の声というのは筋が通らない。俺は家で喋らないのだから、うちでいちばん多いのはテレビの声のはずだ。喋らないと思っているだけかもしれない。一人の家で自分がどれだけ声を出しているのか、考えたこともなかった。

風呂のあとで、わざと声を出してみた。おう、とだけ。廊下の、あれの下では言わなかった。

七月四日

家で最後に声を出したのがいつか、思い出そうとして、思い出せない。もともと出していないのだから当たり前だ。

手控えの今年の頁のいちばん下に、うちの住所を書いて、丸を付けた。仕事の癖で、そうしないと収まりがつかなかった。

整理票

D-0004 うちの火災警報器はいい声で鳴ります

松戸ほか

2025 年春頃 2026-06-01

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