F-0054 そちらの星はよく見えています
- 時期
- 書かれた時期は分かっていない。文中で語られているのは 2010 年代の初めの、八月から翌年の一月にかけてのこととされる
- 状態
- 完全
- 出所
- 何に書かれたものか分かっていない。七つの場面が線で区切られて並んでいる。季節の順に見えるが、月の書かれていない場面が一つあり、並べた意図は分かっていない。同じ人の手によるものかどうかも分かっていない。人の名は一つも出てこない。町の名も出てこない。
// 本文
八月の、流れ星の多い晩だった。父親が去年の暮れに買った望遠鏡を庭に出して、娘と二人で空を見ていた。望遠鏡は通信販売で一万二千円だった。組み立てに一時間かかって、その晩は月しか見なかった。それきり物置に入っていたのを、夏休みの自由研究に使うと言って娘が引っぱり出してきた。
蚊取り線香を足元に置いて、二人で数えた。父親が四つ、娘が六つ。娘のほうが多いのは目がいいからだと父親は思った。娘は流れ星を数えるのに飽きて、望遠鏡を勝手にあちこちへ向けはじめた。
「まるいところがある」
娘が言った。父親は空を見た。どこ、と聞くと、あそこ、星がない、と娘は指をさした。指の先には星がいくつかあった。雲だよ、と父親は言った。娘は望遠鏡から目を離さなかった。
次の晩も娘は庭に出た。父親はテレビを見ていた。娘が窓の外から言った。「大きくなってる」。父親は、そう、と言った。
三日目の晩、娘は縁側にしばらく座って、それから戻ってきた。「今日はない」。父親は新聞から顔を上げて、な、雲だったろう、と言った。娘は自由研究のノートに丸を描いた。前の二日は中を黒く塗った。三日目は線だけにした。
十月に入って、明け方が冷えてきた。新聞配達の男はこの町で十年配っている。三時過ぎに販売所を出て、六時前に戻る。バイクで回る道は決まっていて、県道から農協の前を通り、団地を抜け、峠の下の集落まで行って戻る。
十年配っていると、空が回っているのが分かる。夏の明け方は東が白んでいて星どころではないが、秋になると四時はまだ夜で、オリオンが高い。冬には同じ時刻にもう西へ傾いている。そういうものだと知っている。
農協の前の角に着くのが四時頃で、いつもそこで一度止まる。信号はないが、新聞の束を入れ替える。顔を上げると、山の上に、星のないところがある。
それは毎朝、同じところにあった。
男は、あれだけ動かないな、と思った。誰にも言わなかった。束を入れ替えて、バイクを出した。オリオンは十月のあいだに少しずつ動いた。それは動かなかった。
夜勤明けの看護師が、団地の四階のベランダで煙草を吸っていた。朝の四時半で、まだ暗い。ベランダの正面は山で、山の上に空がある。星は、前に住んでいた町より多い。
吸いながら空を見ていて、星のないところがあるのに気づいた。丸く抜けている。雲かと思ったが、雲は縁がぼんやり白い。それは縁まで黒かった。
携帯で撮った。画面は真っ黒だった。夜の空を携帯で撮ると、いつもそうなる。星も写っていないのだから、比べようがなかった。三回撮って、やめた。
昼過ぎに起きて、その晩の勤務で同僚に話した。星のないところがある、と言うと、同僚は、そりゃ星のないところくらいあるでしょう、と笑った。それで話は終わった。次に夜勤が明けた朝は雨だった。
十一月の観望会は、公民館の裏の駐車場でやる。世話役の男が毎年、町の便りに案内を出す。来るのは十人ほどで、半分は子どもだ。今年は望遠鏡を二台出した。一台は世話役のもので、もう一台は公民館の備品で、備品のほうは脚が一本短い。
六時半に宇宙ステーションが通る。世話役はそれを目玉にしていて、予報の時刻を紙に書いて配った。六時三十一分に、北西から光の点が上がってきて、みんなで指をさして追った。頭の上を過ぎて、東へ下りていく途中で、ふっと消えた。子どもが、消えた、と言った。地球の影に入ったのだと世話役は説明した。
そのあと、小さい子が世話役の袖を引いた。「上のは?」
大人が何人か上を見た。なにもないよ。星があるでしょ。子どもの母親が、変なこと言わないの、と言った。
世話役も上を見た。真上に、それがあった。傘を広げたくらいの大きさだった。周りの星は、みんなが言うとおりに、ちゃんとあった。
世話役は望遠鏡を東へ向けた。木星を見せた。何人かが順に覗いた。それから、雲が出てきたので今日はここまでにしましょう、と言った。誰も空を確かめなかった。
雲は出ていなかった。片づけのあいだ、世話役は上を見なかった。備品の望遠鏡の脚をたたむのに手間取った。
十一月の終わりに、隣町から灯油の配達が来る。トラックで峠を越えて、トンネルを抜けると、この町になる。運転しているのは店の息子で、去年から配達を任されている。
その日は日が短くて、トンネルに入るときにはもう暗かった。長いトンネルではない。抜けたところで、フロントガラスの上のほうに、星のない丸いところがあった。
配達を五軒回った。ポリタンクに移しているあいだ、何度か空を見た。それはあった。
帰りにトンネルを抜けて、峠の途中の道が広くなったところでトラックを停めた。降りて、振り返って、町の方角の空を見た。稜線の上に星が出ていた。抜けているところは無かった。
もう一度トンネルを戻ろうかと思ったが、戻らなかった。店に帰ると、峠の道は凍っていなかったか、と聞かれた。凍っていなかった、と答えた。次の配達は二週間後で、昼のうちに回ることになっていた。
十二月の昼休みだった。四年生の担任は、職員室の窓から校庭を見ていた。
校庭の真ん中で、子どもが五、六人、空を見上げていた。一人が指をさして、ほかの子が同じほうを見る。指をさす子と、ささない子がいた。ささない子は、さす子の顔を見ていた。
担任は外へ出た。何を見ているの、と聞いた。女の子の一人が、あそこ、と言った。
青い空だった。雲が一つ、東にあった。
「今は昼もある」と女の子は言った。
担任は、何が、とは聞かなかった。中に入りなさい、と言った。子どもたちは入った。指をさしていた子も、さしていなかった子も、同じように入った。
担任はもう一度上を見た。青かった。首が痛くなって、やめた。
十二月の学校便りに、次のように載った。
校庭で空を指さす遊びが流行っています。長く上を向いていると首を痛めますので、学校でも控えるよう指導しています。ご家庭でもお声かけをお願いします。
その下は、インフルエンザの予防と、冬休みの生活のことだった。
年が明けて、国道沿いの食堂で昼のニュースが流れていた。客は四人で、みんな定食を食べていた。
アナウンサーが原稿を読んだ。国の研究機関が、来年度の観測プログラムから、空の一部の領域を外すことを発表しました。理由については明らかにしていません。続いて、各地の成人式の様子です。
客の一人が、味噌汁のおかわりを頼んだ。