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D-0008 その合言葉は先週変わりました

聞き取り控・連絡ノート写し/金沢

観測期間

2004 年の冬頃 2007 年の春頃 [散発]

// 本文

この整理票は、金沢市の社宅で二〇〇〇年代に留守番をしていた人物への聞き取りと、当時その家の台所に掛かっていた連絡ノートの写し数冊から組成された。聞き取りの相手は当時小学三年生で、いまは三十代になる。親が共働きだったため、三年生の秋から夕方を一人で過ごすようになった。学区で声かけ事案の回覧が続いた時期にあたり、母親は留守番の決まりを紙に書いて冷蔵庫に貼った。知らない人が来てもドアを開けない。家の者の使いが来るときは、ドアを開ける前に、外から合言葉を言ってもらう。使いに来るのは祖母か、同じ棟の顔見知りと決まっていた。合言葉は母親がときどき決め直し、食卓で伝えて、連絡ノートの隅に小さく書いておく。学校で配られた防犯のプリントの勧めをなぞった決まりで、ノート自体は牛乳の買い置きや帰りの時刻のやりとりが大半を占めている。

最初の来客は二〇〇四年の二月にあった。夕方、チャイムが鳴り、受話器を取ると、お母さんに頼まれて来ました、と言う声がして、それから当時の合言葉だった、やかん、と言った。決まりのとおりならドアを開けるところだった、と本人は話している。開けなかった理由は聞き取りでもうまく言えていない。声で分かる誰でもなかったから、というのがいちばん近いらしい。どんな声だったかは、ふつうの大人の声、としか思い出せないという。相手はしばらく待って、もう一度、やかん、と言い、帰っていった。足音は階段のほうへ消えた。

夕食の席で、ドアを開けなかったことを話すと、母親は褒める前に妙な顔をした。やかんは先週やめたでしょう、いまは、おでん、でしょう、と言った。父親も頷いた。変えた晩に食卓で言ったでしょう、あなたも返事をしたでしょう、というのが母親の言い分だが、本人に覚えはない。連絡ノートをさかのぼると、たしかに一週間前の頁の隅に、母親の字で新しい合言葉が書いてあった。本人は寝る前にこのノートへ目を通すのを日課にしていて、同じ頁には自分の書いた行もある。隅の書き換えだけを、見た覚えがなかった。

同じことは、それから二年あまりのあいだに数回起きている。間隔はまちまちで、続いた月もあれば半年あいたこともある。来客はいつも夕方で、いつも一人で、いつも、本人がそのとき最新だと思っている合言葉を言った。家に帰った親に確かめると、その合言葉はいつも、少し前に変わったことになっていた。写しの残る範囲でノートの隅の書き換えの日付を拾うと、来客のあった日の三日から十日前に必ず済んでいる。書き換えの字はどれも母親のものに見えるが、後年の聞き取りに母親は、合言葉を決め直した覚えは最初の一度か二度しかない、と話している。

一度だけ、順序の崩れた冬がある。二〇〇四年の十二月、来客は誰も教わっていない言葉を言った。つくし、という季節外れの一語で、本人はそれを、合言葉を間違えた、と思って聞いた。年が明けて三月の食卓で、母親が新しい合言葉を決めた。つくしにしよう、外はもう春だから、と母親は言ったという。本人はその場で何も言えず、ノートの隅に書かれるのを黙って見ていた。

本人はこの頃から、教わった合言葉をわざと覚えないことにしている。自分が知らない言葉は、外の声にも言えないはずだ、という子どもなりの理屈だったと振り返る。覚えないでいた数か月、来客は一度も来なかった。学年が変わって、留守番の決まりを親にあらためて言われ、合言葉を覚え直した。その春の終わりに、また来た。

決まりそのものは、本人が中学に上がった二〇〇七年の春に自然となくなった。留守番に合言葉を使う年でもなくなり、ノートの隅の書き換えも、写しの範囲ではそこで終わっている。来客がいつ来なくなったのか、はっきりした日付はない。本人が覚えているのは回数で、合言葉を口にして帰っていく声を、全部で六度聞いたという。六度とも、ドアは開けていない。

聞き取りの終わりに近く、本人は、外の誰かが間違っていたことは一度もない気がする、と話している。家の決めごとはいつも自分を置いて先へ進んで、手元には終わったほうの合言葉だけが残った、という言い方だった。整理の過程には別の読みも残されている。使い終わった合言葉は、あの家では捨てられていたのではなく、引き取られていたのではないか。どちらの読みも、夕方の来客が誰だったのかには届いていない。

本人はいまも、実家で最後に教わった合言葉を覚えている。聞き取りでは、それが何かは言わなかった。教わってから二十年近くになるが、まだ一度も、ドアの外から言われたことがないのだという。

// メタ情報

由来
外部由来
整理日
2026-07-12
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